宮内季子文書について

【解説】
 宮内季子文書は、宮内季子のご令孫岡田季子氏から早稲田大学図書館に寄贈された文書である。

 宮内季子(白灣)は、明治4(1871)年10月、和漢学の大家宮内嘉確(君浦・源成)の五男として千葉県銚子に生まれる。物理学校を経て、第二高等学校二部(工・理・農)に入学。仙台時代に忠愛同盟倶楽部・基督教青年会に参加。明治33(1900)年京都帝国大学理工科大学に入学したが、翌34(1901)年に法科大学法律学科に転じる。在学中に織田萬の指導を受け、長尾景徳・佐藤丑次郎との共著で『改正衆議院議員選挙法正解』京都・講法会出版(1902年)を上梓。明治36(1903)年同法科大学を卒業(第一期生)。同年7月司法官試補に任官、同年10月岡松参太郎を指導教授として京都帝国大学大学院に入学、台湾旧慣調査にも参加。明治37(1904)年5月京都区裁判所検事代理に任官、同年11月解任。明治38(1905)年司法官試補を依願退官。臨時台湾旧慣調査会に赴任。ほどなく華北旧慣調査準備のため北京に派遣さる。この年、岡松参太郎の姪中村適(かなふ)と結婚。明治40(1907)年南満州鉄道株式会社に就職、調査課旧慣調査班主任となる。大正2(1913)年満鉄調査課を辞職し、台湾源成農場主任となる。旧慣調査班の成果は『満洲旧慣調査報告書』全3巻10冊(1913~15年)に纏められている。宮内は「安東線土地一班」(『安奉沿線舊慣調査資料』南満洲鉄道調査課、1909?年)、「典ノ慣習」(『満洲旧慣調査報告書(後編第1巻)』、「押ノ慣習」(『満洲旧慣調査報告書(後編第2巻)』などを執筆している。後藤新平総裁の辞任(1908年)及び岡松参太郎理事の辞任(1914年)により、満鉄調査部は旧慣調査からロシア調査及び経済調査に重きを置くようになる。大正8(1919)年12月東京より台湾への帰途船中においてスペイン風邪に冒され、同月26日台中の病院にて没。

 宮内季子文書は、宮内季子と妻適や岡松参太郎らとの間の書簡を中心とした436点におよぶ資料群である。宮内季子は、岡松参太郎の指示により、台湾及び満洲における旧慣調査の実際を取り仕切った人物であり、旧慣調査の実相あるいは台湾と満洲の旧慣調査の連続性を検証する資料として活用しうる資料群である。その意味において岡松参太郎文書を補完する資料群であるといえる。

研究代表者:浅古 弘

 宮内季子文書の整理・目録の作成・公開は、平成21年度~平成25年度科学研究費補助金(基盤研究(A))「帝国と植民地法制に関する実証的研究」の研究成果の一部である。