千種達夫文書について

【解説】
 千種達夫文書は、元最高裁判所判事千種秀夫氏から早稲田大学図書館に寄贈された文書である。

 千種達夫は、明治34(1901)年4月兵庫県に生まれる。第一早稲田高等学院を経て、大正15(1926)年早稲田大学法学部卒業。同年4月早稲田大学大学院法律学科に入学と同時に法学部助手に嘱任される。同年の高等試験行政科および司法科に合格。昭和2(1927)年司法官試補。同年東京外国語学校専修科独語部入学。昭和3(1928)年東京地方裁判所予備判事。昭和4(1929)年3月早稲田大学大学院及び東京外国語学校を退学。同年5月長野地方裁判所松本支部判事。三宅正太郎(名古屋控訴院判事)らと口語体判決文を書き始め、国語愛護同盟の法律部メンバーとして法律文の平易化を模索。その後横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。この間、早稲田大学講師を兼任する。この頃より高間惣七に師事し、また戦後は和田三造に師事して、主として日本画の作品を多く残す。昭和13(1938)年9月判事を退官し、満洲國司法部参事官として家族制度慣習調査に従事し、満洲国の立法作業にも参画。昭和20(1945)年8月失官。昭和21(1946)年9月帰国。同年11月東京地方裁判所判事。国語審議会委員となり、「公用文法律用語部会」(中村宗雄部会長)に属す。昭和30(1955)年盛岡地方裁判所兼家庭裁判所所長、昭和32(1957)年東京地方裁判所判事(民事所長代行)、昭和36(1961)年東京高等裁判所判事、翌年部総括となる。昭和41(1966)年判事を依願退官。早稲田大学客員教授に就任。同年中央労働委員会公益委員となる。昭和42(1967)年早稲田大学客員教授を依願退職。弁護士登録。同年9月成蹊大学教授。昭和47(1972)年早稲田大学法律顧問に就任。昭和48(1973)年成蹊大学教授を定年退職。この間、最高裁判所公平委員会委員長、水俣病紛争処理委員会座長などを務め、昭和56(1981)年9月没。

    著書: 『裁判閑話』巖松堂書店(1948年)
    『労働裁判-労働判例及び訴訟-(全2巻)』日本労政協会(共著、1952・53年)
    『民法教室 物権篇』法令出版公社(1958年)
    『満洲家族制度の慣習(全3冊)』一粒社(1964~67年)
    『人的損害賠償の研究(上・下)』有斐閣(1974・75年)など

 千種達夫文書は、主として千種達夫がその活動のなかで作成した1,282点におよぶ資料群である。そのなかには、満州での旧慣調査や家族法の立法に関係する資料、判決の起案文書・既済材料・調査草稿、家庭事件のメモなどの裁判官としての活動に関係する文書、原稿やノート類、穂積重遠らの知友からの書簡などが含まれている。これらは、法制史、社会史、植民地史、東北アジア史といった歴史研究ばかりでなく、戦後の家族法や労働法に関する理論や実務に関係する資料もあり、法律学においても広く活用しうる資料群である。

研究代表者:浅古 弘

 千種達夫文書の整理・目録の作成・公開は、平成16年度~平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(A))「東アジアにける近代法形成と法の回廊に関する実証的研究」及び 平成21年度~平成25年度科学研究費補助金(基盤研究(A))「帝国と植民地法制に関する実証的研究」の研究成果の一部である。